レオナルド・ダ・ヴィンチはどんな人で何をしたのか

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452年4月15日 - 1519年5月2日)はフィレンツェ共和国(現在のイタリア)の芸術家、科学者、発明家。盛期ルネサンスの芸術における三大巨匠の一人としてミケランジェロ・ブオナローティとラファエロ・サンティと共に並び称される。しかし彼の仕事は絵画や彫刻といった芸術的な方面に止まらず、建築、数学、工学、解剖学、天文学、地質学、植物学、動物学などの数々の科学的な方面にも及んでおり、万能の人と呼ばれる。
年表:生涯の主な出来事
- 1452年4月15日
- フィレンツェ共和国のトスカーナ州のヴィンチ村で生まれる。
- 1466年
- 画家のアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入り、修行を始める。
- 1472年
- フィレンツェのアルティ/商業と品質管理のために結成された同業者組合(ギルド)の聖ルカ組合/画家組合に登録してマスター(親方)の資格を得る。
- その後、父親から与えられた工房へ独立してアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房と協働する。
- 1478年
- 自分の工房が置かれた地元を離れる。
- 1482年
- ミラノ公国で活動し始める。
- 1490年
- 最後の晩餐を描き始める。
- 1499年
- 第二次イタリア戦争の勃発で弟子のサライ(ジャン・ジャコモ・カプロッティ)や友人の数学者のルカ・パチョーリと共にマントヴァを経てヴェネツィアへと避難した。
- 1500年
- フィレンツェに戻るとサンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院の修道士たちから賓客として迎えられる。
- 1502年
- ロマーニャ公国のチェーザレ・ボルジアの軍に建築技術監督兼軍事顧問として同行した。
- 1506年
- ミラノを訪れて画家のベルナルディーノ・ルイーニのような追従者、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオやマルコ・ドッジョーノなどの弟子を得た。
- 1507年
- フィレンツェに戻ると三年前に亡くした父親の遺産を巡る兄弟との問題解決に腐心する。
- 1508年
- ミラノ公国に戻るとサンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに邸宅を購入する。
- 聖ルカ組合/画家組合に再登録する。
- 1513年
- ヴァチカンのベルヴェデーレに移り、1516年まで過ごした。
- 1515年
- ボローニャで開催されたフランス国王のフランソワ一世とローマ教皇のレオ十世の和平会談に招かれる。
- 1516年
- フランソワ一世のアンボワーズ城近くのクルーの館を邸宅として与えられ、年金も支給されて弟子や友人と暮らす。
- 1519年5月2日
- フランス王国のアンボワーズで亡くなる。
参考サイト
サイト:ホームページやSNS
- Universal Leonardo(University of the Arts, London)
- e-Leo(La Biblioteca Leonardiana)
レオナルド・ダ・ヴィンチは1466年にヴェロッキオの芸術工房に弟子入りし、そこで絵画、彫刻、建築を学んだ。遅くとも1472年までに聖ルカ組合/画家組合に登録してマスターとして自身の工房で制作し始めた。
彼の最も有名な絵には『最後の晩餐』と『モナリザ』があります。その他、完成したものは決して多くないが、二つの『岩窟の聖母』や『白貂を抱く貴婦人』や『洗礼者聖ヨハネ』などが挙げられる。又、幾つかかの未完や真偽不明の作品があり、さらに数多くの線画や素描が残されている。
加えて科学で解剖学や光学などの多くの研究やヘリコプターや潜水服などの多くの発明を行っていた。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、人類史上、最も有能な人物の一人と認められており、彼の仕事は今日でも人々を多方面で刺激し、驚かせ続けている。
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