松尾芭蕉のプロフィール 結城永人 -5月 27, 2023 松尾芭蕉はどんな人で何をしたのか Basho Matsuo by Sanpu Sugiyama / Public domain 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644 - 1694)は江戸時代前期の俳人/俳諧師。伊賀国阿拝郡(三重県伊賀市)の農家に生まれ、幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、後に宗房。俳号は宗房から始まり、桃青を経て芭蕉と、二度、改められた。北村季吟門下。 年表:生涯の主な出来事 1644年伊賀国阿拝郡(三重県伊賀市)で生まれる。1662年伊賀国上野の侍大将の藤堂新七郎良清の嗣子の主計良忠(蝉吟)に仕える。京都の北村季吟に師事して俳諧の道に入る。1664年松江重頼撰『佐夜中山集』に貞門派風の2句が松尾宗房の名で、初めて入集する。1666年良忠が没すると遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わり、菩提を弔う。1672年第一句集『貝おほひ』を伊賀上野の菅原社(上野天神宮)に奉納する。藤堂新七郎家への仕官を退き、江戸へ下り、故郷を離れて暮らすようになるらしいが、この退職と引っ越しは良忠の死の直後とする説もある。1674年江戸の北村季吟から卒業の意の俳諧作法書『埋木』を授けられる。1675年在住の俳人たちと交流を持ち、江戸俳壇の後見と目される磐城平藩主の内藤義概のところにも出入りする。江戸を来遊中の西山宗因を迎えて宗因歓迎百韻に参加するが、併せて俳号を宗房から桃青に改める。1676年伊賀国上野に帰省し、逗留後、甥の桃印を伴って江戸に戻る。1677年神田上水の改修工事の仕事に、四年程、携わるが、その間、関口芭蕉庵に住む。1678年前年の春かこの年に宗匠として立机し、職業俳諧師となり、お披露目の万句興行を催し、日本橋小田原町で点業を始める。1680年茅屋子編『俳諧関相撲』(天和2年刊行)の三都18人の宗匠の一人に名を連ねる。深川の草庵に居を移して隠棲生活に入る。1681年弟子の李下から芭蕉の株を贈られ、居所を芭蕉庵とする。1682年望月千春編『武蔵曲』に芭蕉の俳号で、6句が入集する。八百屋お七の火事で、芭蕉庵が焼失し、甲斐国谷村(山梨県都留市)の国家老の高山繁文(伝右衛門)宅に寄留する。1683年江戸に戻り、友人や知人の寄進によって再建された芭蕉庵に住む。1684年門人の苗村千里を伴って東海道を南へおよそ八ヵ月の『野ざらし紀行』の旅に出る。1687年門人の河合曾良と僧侶の宗波を伴って常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)へ『鹿島詣』の旅に出る。東海道を西へおよそ六ヵ月の『笈の小文』の旅に出る。そのまま、四ヵ月後、美濃国(岐阜県)から門人の越智越人を伴って『更科紀行』の旅に出ると同月に江戸に帰る。1689年門人の河合曾良を伴って東北方面から日本海側を巡るおよそ五ヵ月の『おくのほそ道』の旅に出る。そのまま、美濃国(岐阜県)から伊勢神宮へ参拝すると伊賀国上野へ帰郷する。数ヵ月後、京都に入り、さらに年末を近江国滋賀郡膳所(滋賀県大津市)の義仲寺の無名庵で過ごす。1690年近江膳所の藩士で、門人の菅沼曲水が用意した滋賀郡国分の幻住庵に入って、四ヶ月程、静養する。1691年門人の向井去来と野沢凡兆と共に俳諧撰集『猿蓑』の編纂に取り組み、刊行する。江戸に戻り、日本橋橘町の彦右衛門の借家に入る。1692年新築された芭蕉庵へ引っ越す。1693年夏の暑さで体調を崩し、一ヵ月程、引き籠もり、禁欲生活を送る。1694年これまで推敲を重ねて来た『おくのほそ道』を仕上げると同年に刊行される。世話人か息子の次郎兵衛を連れて伊賀国上野へ帰郷する。門人の各務支考と『続猿蓑』を補選する。門人の槐本之道と濱田洒堂の不仲を取り持つために大阪へ向かうが、目的は果たせず、頭痛と発熱を起こすなど、体調を悪化させる。一時、回復して俳席にも現れたものの下痢が酷くなり、寝たきりになる。南御堂(大阪府大阪市の真宗大谷派難波別院)の門前の花屋仁左衛門の貸座敷で、門人たちに看病されながら病中吟の句を詠み、遺書を認める。1694年11月28日病気のため、50歳で亡くなる。 参考サイト松尾芭蕉 サイト:ホームページやSNS 芭蕉(bashoDB)(伊藤洋) 松尾芭蕉は和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を蕉風と呼ばれる独自の芸術性の高い作風によって捉え直し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最も有名な俳人の一人である。 元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国大垣まで巡ったおよそ五ヵ月の旅を記した俳諧紀行文の『おくのほそ道』で特に良く知られている。 松尾芭蕉は俳諧を只の言葉遊びの芸事から文学の域にまで高めた最初の人物であり、俳句が世界で最も短い詩形として成立する過程やその後の考察において非常に大きな影響力を持つと一般的に認められており、彼の作品や人物の魅力は日本のみならず、現在、世界にまで広がっている。 些細な日常松尾芭蕉のわびさびの俳諧はおくのほそ道が極意的だ松尾芭蕉はおくのほそ道で憧れの松島へ訪れても言葉を失うほどの絶景のために俳句を残さなかった コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント